自信と客観的現実 – 能力と自信、”自分に自信がない”とか

こんにちは。

ブログ3つめの投稿です。

ブログ開設したばかりで、まだ人様に見てもらうような段階じゃないとは思っているんですが、X(旧ツイッター。こちらも開設したばかり)にリンクを貼ったらそこから数人はクリックしてくれる人もいるみたいでした。
ほぼたまたまでしょうし、せっかく来てもらってもしっかりおもてなしできる準備ができていないのが残念ですが、まあここが完全に人里離れた僻地ってわけでもないんだなと知れて少し安心はしました。

あと、ブログの技術面も苦手で、デザインは比較的殺風景ですが、アイキャッチ画像を貼ってみたら見栄えがぐっと良くなったのも何だか嬉しかったです。

これからもコツコツと投稿を継続して、このブログを積み上げていきたいと思います。

では今日の話。

ルーマニア人美女から聞いた話


つい先日、たまたまルーマニア人の友人(美人)から聞いた話ですが、ルーマニア語には英語の”confidence”に直接翻訳できる単語がないらしいです。

彼女の説明によると
「代わりに”Sa ai incredere”というフレーズがあって(どう発音するのか分からないけど)、これは”to have trust”(信頼を抱く)のような意味になる。これは包括的な単語である”confidence”よりも微細で奥深いニュアンスを持っていて、具体的な文脈によってフレーズが変化する」
とのこと。
(ついでに、今日は扱いませんが、”lonely”に直接相当する単語もないとも言っていました。)

この話、とても興味深く、そして重要だと思いました。

“自信”って何?


率直に翻訳するとすれば、日本語にも”confidence”に相当する「自信」という言葉があります。
言葉自体はとても一般的です。

「自信」を辞書で簡単に調べれば、「自分の才能・価値を信ずること。自分自身を信ずる心」とあります。

ですが、しばしばこれに加えて、とあるニュアンスが付いてきます。というのは、「何をするにも自信を持つことは重要だ」というような考え方です。

というのは教育や成長、自己啓発や能力開発の分野ではよく、「自信を持つこと」が強調されます。
大抵、自信を持つ/自信があることは、能力や達成と何となく(無意識的に)紐づけられています。

そういう意味で、「自信がない」というのは、あまり好ましくない事/改善すべき事とされる傾向があります。

それだけ強調され、重要とされる自信。ですが・・

じゃあ、「自信とは何か?」と、人々にその定義を聞いたら、おそらく、途端に答えは曖昧になると予想できます。

よく知らない人に着いて行ってはいけない


前回書いたように、一見聞こえの良い言葉だとしても気をつける。

でないと、うっかりしていると、知らない間に、あらぬ方向に(思考が)連れて行かれかねないのです。

言葉に惑わされず現実を生きる

前回書いた以上にはっきり言うと、言葉の定義の曖昧さは思考の不明晰さに繋がるのです。

しかし、ここでも重要なのは、”現実”から離れないことです。

そのコツは、”現実を見る”ことです。

知らない人があなたに何かを誘いかけてきたら、何も聞かずに素直に着いていくはずがありません。
“その人は何者か?”とか”何を言ってるのか?”
ということをよくよく観察するでしょう。

今のは多少ふざけた喩えですが、今回の話では、「物事の達成に”自信”は重要だ」と他の誰かが言ってあなたの手を引いているようなものだと思ってください。

現実の視点に立つとすると、物事を受け入れて判断を下す前に、自分の目(理性)で観察する必要があります。

今回の話の場合は、『”自信がある”(“自信がない”)とは、実際のところどういうことなのか?』と問うことです。

能力や達成は現実の領域にある


自信があるかないかは、単なる自分についての自己意見でしかありません。

先の辞書の定義でも「信ずること」とありましたが、つまり「現実はどうか」ではありません。

しかし、能力も達成も、現実の領域にあるのというのが真実です。

能力を伸ばすために必要なことは、現実の上での訓練であり、達成は現実の実践によって起こります。

と、こう書くと堅苦しい感じがしますが、意味としては当たり前の話です。

逆に、
「能力に必要なのは自信を持つことであり、達成に必要なのも自信を持つことだ」
と比べてみてください。

(こういう意見が悪いだとか、自信を持つことは良くないのだ、と言いたいわけではなく、「客観的に見て、その意見はどこまで本当だろうか?」と考えるための思考実験です。)

料理で例えると、”料理の腕前”も”作った料理の出来栄え”も、現実の領域にあって、自信の有無とは直接関係がありません。
自分が自分を信じることで、腕が上がったり、料理が美味しくなるわけではありません。

「自信はあるが腕のない料理人」と、「自信はないが腕の良い料理人」。
どちらの作った料理に価値があるでしょうか?

「自分に自信がない」というありふれた悩み


例えば、「自分に自信がない」と悩む若者は多いようです。

“若者に悩みはつきもの”ですが、この「自分に自信がない」という悩みは抽象的で、特に現代的なような気がします。(これはこれで興味深い議論ですが、ここで深くは掘り下げません。)

しかし、これは現実探求の視点で客観的に見ていくと、「自分に自信がない」の実際は、「自分の容姿が好きじゃない」だったり、「十分な能力が足りていない」といった、ありふれた自己評価だったりします(若者にとっては特に不思議ではない自己評価です)。

この場合、「自分が自分をそう評価している」という現実を客観的に知れば、「その自己評価は妥当か?」という次の問いに進むことができます。

現実が見えると、”悩む”のではなく、”考える”ことができます。

しかしそれを「自信」という曖昧な言葉/概念で捉えていると、現実を見る目はボンヤリし、思考は不明晰、客観的な問いは立てられず、曖昧な感情の上を右往左往する(=悩む)ことになりかねないわけです。

(念のためですが、言葉に罪はなく、あくまで思考の話をしています。僕も「元気を出せ」と言う時のような、カジュアルな意図や文脈で「自信」という言葉は気軽に使います。)

現実を客観的に観察する


今回も前回に引き続き、言葉は思考を曖昧にするおそれがあるという話でしたが、とにかく、大事なことは言葉/概念ではなく”現実”を見ることです。

“現実”の中に、考えるヒントがあります。

客観的に観察することが決定的要件です。

余談ですが、僕はこの「客観的に観察する」ということについては、中学生の頃に聴いた John Lennon の”Watching The Wheels”という曲の歌詞を思い出します。

I’m just sitting here watching the wheels go round and round
No longer riding on the merry-go-round

僕はここに座って回る車輪を見ている
メリーゴーランドからはもう降りた

“他人/世間が自分に向ける目、抱くイメージ”と、”自分自身の価値観や本心”を客観的に切り離して、自分に正直でいられることの自由が歌われています。

今回は、僕の好きな John Lennon の話で締め括りとします。

John Lennon は、言うまでもなく世界的ロックバンド、The Beatles のメンバーです。
彼は、キャリアの初期からしばらくは、自分の声が好きではありませんでした。(自分の声質への不足感を補完する意図での多重録音などを好んだ。)

これについて、「彼は自分の声に自信がなかった」とも言えるでしょう。

それでも、彼はたくさんの曲を書いて、自分の声でそれを歌いました。
そして僕も含め、彼の歌声のファンは世界中にたくさんいます。

その現実の中にこそ意味があり、深い本当の味わい(醍醐味)があると思います。

ではまた。