カエルがムカデにふざけてきいた
「教えて、どの足がどの足の次にくる?」
ムカデはすごく考えて、うわのそら
走り方がわからない
この前たまたま見かけた、Xで盛り上がっていた小さなトピック。
どこぞの寿司屋の見習いさんが、何年だったか十何年だったか、「ずっと大将の仕事を見ているだけ」と揶揄するような話でした。
面白可笑しくするためでしょうが、まるでその見習いさんが本当にずっと突っ立って仕事を見ているだけで過ごしているかのような切り取り方は、いかにもSNS的だなと思いましたが。
まあ、そんな意地の悪い揶揄は差し引くとしても、ちょっと興味深い議論でもあります。
“修行は無意味”説
盛り上がっていた声の多くは、「”見て覚えろ”は効率が悪いだけ」「”見て覚えろ”と言う指導者は無能である」というものです。
その手の「古い教え方」に対して否定的な意見が多く集まっていました。
詳しくは覚えていませんが、確か以前にホリエモンが、寿司の修行に何年もかけることも批判していましたよね。
要は「やり方を効率的にさっさと教えれば(学べば)そんなに時間かけなくてもいいだろう」といった意見だったと思います。
「見て覚えろはナンセンス」「ちゃんと教えない指導者は無能」「何年も修行は不要」。
こういった考え方はそれぞれに一理あります。
言葉で上手に説明する。場合によっては手取り足取り教える。その方が効果的で、話は早そうです。
必要な知識を体系的に学んで、ある程度訓練すれば「それで仕上がり」と言える技術は多くあります。
また、古いやり方の指導者の中には、教えるのが下手だったり、教えることに消極的だったり、未熟な指導者もたくさんいるのも事実かも知れません。
なので、上記の否定的な意見も決して間違いではないけれど、この議論では、マニュアル仕事とスキル習得を一緒くたにしているフシがあります。
マニュアル仕事に関してなら、上で出たような意見はほぼ当てはまりますが、スキル習得に関してはそうとも言い切れない。
正確に言うと、むしろその考え方ではカバーできない、または重要なことを見落とかねません。
スキル習得にはしばしば、理屈で捉えられない、目に見えない領域が重要になるからです。
バーテンダー修行
僕は寿司の世界のことは分かりませんが、バーテンダーという職人の世界にいて、いわゆる修行時代があります。
その時代に、もし僕が本当にひたすらマスターの仕事を「ただ見ているだけ」だったら、技術の習得はあまり望めないでしょう。
僕のマスターはどちらかというか言葉やデモンストレーションでも教えてくれる人でしたが、それでできるようになるというものでもありません。また、例えば何気ない”所作”など、マスターが感覚的に身につけて自然に実践している絶妙な技術についてはなおならです。
なので、当然、マスターのいない所で自分でも練習するのです。
その時に、無作為に練習するわけではありません。師匠の仕事ぶりがビジョン/望む成果になります。
「あんな風にする」というビジョンを持った状態で、自分でやってみます。
しかし、自分で練習してもうまくいかない、何かが違う、どうしていいのか分からないこと。そういうことがやはりあるものです。
だから、繰り返しマスターの仕事を観察する。で、自分のビジョンを見直して、また実践する。これを繰り返します。
この繰り返しの中で、ビジョン(望む成果)と今の現実の”隙間”。
そこに学習が起こります。
これは言葉での説明や手取り足取りでは捉えきれない。
ましてやマニュアルで解決する仕事のようなものとは別の次元のものです。
ひよこ鑑定士と対空監視員の謎
典型的な例として、ひよこ鑑定士の話をします。
ひよこ鑑定士というのは、ひよこのオスとメスを瞬時に鑑別していく専門技能職です。
この技能において最も優れた肛門鑑別法という手法は、1930年代に日本で開発された、実は日本が世界に誇る特殊技能です。
興味深いのは、この手法の習得に関してです。
不思議なことに、どうやってやるかを誰も正確に説明できない。
視覚を手がかりにしているのですが、プロの鑑別師でもそれが何なにかを伝えられない。
ただ、ヒヨコのおしりを見れば、「とにかくわかる」ようなのです。
実習生はひよこのおしりを見て、どちらかの箱に入れる。
指導者は、それに、◯か×かをフィードバックを返す。
ひたすらこれを繰り返し、実習生は無意識の技能、「何故か分からないけど、分かる」能力を身につけます。
同じことが海の向こうでもありました。
第2次世界大戦中、イギリス軍には、基地に向かってくる航空機が自国機か敵機かを素早く正確に見分ける特殊な役割を担う監視員がいました。数人の「飛行機マニア」が優れた判別力を持っていたのです。
イギリス軍は大勢の監視員を必要とし、飛行機マニアたちは他の人たちを訓練することになりましたが、それはうまくいきませんした。
ヒヨコ鑑定士と同じく、彼らは自分たちの技能の仕組みについて、自分たちでも分からなかったのです。
何がどうなっているのか本人たちにも説明できないが、「とにかく正しい答えが分かる」ものだったのです。
やがてイギリス軍は新しい監視員を訓練する方法を見つけました。それもヒヨコ鑑定士と同じです。
新人は思い切って推測し、ベテランが◯か×を判断する。
その繰り返しで、やがて新人はベテランと同じく、説明のできない技能を身につけたのです。
理屈を超えた領域
まあこれらは典型的な例で、普通の人にはあまり関係のない職業ですが、要するに、スキル習得の多くは、効率性の外側の言葉や論理で捉えられない領域で起こるものだということです。
外国語を習得したいとします。単語を覚えて、文法を理解して、発音も学習する。
それらを知識でマスターしても、いざ実際に言語を使うとなるとまず満足にはいきません。
同時に、下手なりに、不満足なりにでも意識的に実践していくことで進歩が起こります。
これは、外国語ではなくでも、母国語でのトークや、コミュニケーションのスキル。絵画、楽器の演奏、演劇、スポーツ、料理。そして仕事。あらゆるスキル学習に通ずるところです。
さらには、スキルによっては、熟練度という意味ではどこまでも奥は深く、”ここでアガリ”がないものが多くあります。
アート・スポーツ・仕事の各分野において、長年のキャリアがあって誰も目にもエキスパートに見える人が、「(自分の技術/分野について)やっとわかってきた」などと言うことがあるように。
つまり、マニュアル学習のように「何ヶ月、何回やって、何点取ったから達成」ではないのです。
スキル習得において、目に見える部分を効率的に取り組むことはできても、本当の効果..学習/成長/進歩は、理屈を超えた目に見えない領域にあるものなのです。