“味わう”技術 -「わたし、あまり詳しくなくて」問題をこえて

中島健太さんという人気画家さんの「完売画家」という本をキンドルで買って、
ボチボチ読んでいたんですが、「はじめに」でいきなり笑えた..
と言うと誤解を生みますが、愉快な内容がありました。

それはこんな内容です。

「『私、芸術とかアートって全然分からないんです』と前置きする人が必ずいる。その一言は要らない。難しく考えることはない。好きな作品が一つでもあればいい。その作品のどこが好きかを言えればなおいい。好きな作品があって、その理由がわかればもう、『芸術がわかる』ということ」

これ、自分も飲食業やバーテンダーの経験の中で、
カクテルやワインに関してもよく似たようなことを思っていて、
お客さんにも言っていました。

お店に来るお客さんたちも本当にしょっちゅう、
「ワインとか難しくてよく分からないんです」
「私、カクテルって全然知らなくて・・」
と言っていたものです。

芸術と飲食ではジャンルが異なりますが、
お客さんの言葉には共通したニュアンスがあります。

「知ってるかどうか」「分かっているかどうか」
ということを重要視し過ぎている。

でも、芸術にしろ、カクテルやらワインにしろ、
大事なことは「詳しい」とか「分かっている」
などということでしょうか?

何が大事なのかをここで論じるつもりはないですが、
「自分なりに楽しむ」ということの方が意味があるのではないか?
(少なくとも、カクテルに関しては僕は専門でしたから、そう断言します。)

で、「自分なりに楽しむ」上では、知識量っていうのはそんなに関係がない。

もちろん知れば知るほど楽しみは広がるという側面はあります。
でも興味があれば、それは自分のペースでゆっくり楽しんでいけばいい話。

先のいくつかのコメントのニュアンスにあるような、
「よく知らないと(分からないと)良くない」
といったことは基本的には関係ないのです。

僕が多少思うことは、こういうのは学校教育、
偏差値教育的な考え方の名残があるなと。

まず「正解ありき」で、「それを沢山知ってる」人が「優れて」いて、
その逆に、「知らない」と「劣って」いて「不十分」という評価基準の世界。

そんなこんなで出てくる「私あまりよく分からないのですが」というエクスキューズ。

でも実際は、詳しい必要なんていない。

さらに言うと、実際の人間を観察していると、
カクテルでもワインでも、アートでも何でも、
詳しい事を誇示しようとして、知識をひけらかそうとしてスベッている
寒い人もしょっちゅう見かけますからね😃

そういう人も、「よく知っていれば優れている」という
評価基準に染まってしまっているのでしょう。
そして、知識はたくさん持っているが、結果的に「つまらない人」になる。
そんな滑稽なケースは珍しくないです。

「よく知ってるかどうか」は一つの客観的な事実です。
事によっては評価基準になりえますが(知識が武器となる職業など)、
普遍的な条件ではない。

「よく知ってるから優れている/よく知らないから劣っている」

その考え方に捉われていたら、楽しめるものも楽しめない。

下手すると「よく知ってる風」の寒い人に翻弄されるかも。

好きな人と食事をしながら、乾杯して飲むワイン。
バーのバックバーを眺めながら、一人しっぽり飲むカクテル。
美術館で目にする、何故どうやって創られたか分からないようなアート作品。

それらを経験すること、楽しむこと、味わうことに、
知識の量や理解の程度が本質的に重要でしょうか?

ここでも結局、「現実を見る」。これに尽きます。