自由と不自由 – 思い込みと選択肢

昨日、大型連休のゴールデンウィークが明けましたが、
こういった「世間的にはレジャーシーズン」となると、
逆に忙しくて休むどころか普段以上に大変な業界もあるものです。
僕が長く経験した飲食業界なんかもそうでした。

さて、X(旧ツイッター)を見ていると、時々、
そのような「業種のために期間中でも休日をとれない」人が、
「休日をとって遊びにいける」人達に恩を着せるような愚痴、
まるで恨み言を言っているのを目にすることがあります。

「私たちが休めずに頑張ってるから、あなた達はのびのび楽しめるのだ」といった話です。

気持ちは分かりますし、一理はあります。
けれどそうやって単純に対比構造にしてしまうのは
かなり違いますよね。

だって例えば、立場を逆にして極端に言えば、
「私たちが休んで遊んでお金を落とすから、
 あなた達の業界が潤い、給料が入り、仕事も失わずに済むのだ」
と言うこともできる。

もちろんこんな「どっち方ががどうだ」の水掛け論をしたいわけではなく、
「そんなに単純な対比で考えるものではない」
ということを言いたいわけですが。

それよりも重要なポイントは、先の恨み言には、
「不自由な自分は可哀想」という卑屈な
被害者/犠牲者意識が見えることです。

このような状態の人に、先に書いた”逆の立場からの話”をしたり、
「休みたければ休めばいいのでは?」
「嫌ならその仕事を辞めればいいのでは?」
などと「別の選択肢」の提案をすれば
相手は必死に否定しようとしたり、かえって怒りを買うこともあります。

ソフトな言い方をすると、彼らには「心に余裕がない」のですが、
なぜ心に余裕がないのか?
彼らの「余裕がない」とは一体どういうことなのか?

こういう人たちは、「不自由」だから・・

いや、正確に言うと、「自分は不自由だ」という
誤った「思い込み」を強く持っているのです。

この「不自由」とは、「選択肢はない」ということです。

「自分にはそんな選択肢はない!」と思い込んでいるのです。

何かを”する”選択の選択肢、”しない”選択肢がない・・
何かを「やってはいけない」、または、
「やらざるをえない」と思い込んでいる状態。

しかし、現実には、選択肢はあります。
やりたいことをやっていいし、やりたくないことはやらなくていい。

仕事が嫌なら、離れてもいい。もちろんその選択の結果を自分が引き受けるわけですが。

これは別に、「仕事が嫌ならすぐに辞めよう」といった話では全くありません。
そういう表層の行動ではなく、その背景にある動機が
正しく現実(の理解)と繋がっているかどうかの話をしています。

「(本当は)選択の自由はある」という現実です。

ところが、多くの人は、そもそもまるで、
自分には選択肢がないかのように振る舞い、
他者に責任を転嫁し、憤る。

彼らに悪気はありません。

本当にそういう思い込みの中にいて、現実を見るのが難しくなっている。

本当は自由なのに、それが分からなくなっている。

しかし現実をありのままに見て、考え抜けば、
選択肢があることが分かります。
「不自由さ」は思い込みの産物だったと分かります。

「本当は自由だ」と知るのです。

こういったことをスピリチュアル系の人たちは「手放す」「目覚める」「真の自分」など
諸々の彼ら的な表現をして、何か「ふわっ」とした話になります。

しかし、これは実際、理性の領域です。

現実を観察し、適切に考えて、理解することができる。

人生をどう生きるか?というテーマにおいて、
事実として、人は自由なのです。