タイプ論と人間関係、または自分が自分であることへの不安

人間関係に悩む人が多いので、人間関係についての本もたくさん出版されています。

以前に、「人はたったの4タイプ」とかいう、まあ、今時にありがちな本の存在を知りました。

タイトル通りだとすれば、「人は4タイプに分かれる」という考え方がある、ということでしょう。

この手の本や考え方を目にすると、釈然としないものがあります。
遠慮なく言うと、余計な知識だとすら思います。

あの人はどのタイプ!?このタイプ!?

釈然としない、というのは、「人が本当に何タイプに分かれるのかどうか」ということではなく、そういった理論を、実際の人間関係に適用することの意味です。

つまり、仮にその本で知った理論を受け入れて意、「人が4タイプに分かれる!」と考えたとして、「あの人はどのタイプ?この人はどのタイプ?」いった目で人を見ることは「どうなんだ?」と思うのです。

相手を、「こういう人」や「こういうもの」といった目で見る。そういった姿勢で人と関わる。

ここは微細な話ですが、人をタイプ分析するというのは、人を「機能」に還元して見ているように思えるのです。

このこと自体が必ずしも悪いというつもりはありません。
珍しい話でもないですし、人のことを知る視点の一つとしては役に立つ面もあるかも知れない。

しかし、本質的な「人間関係を作る」という意味ではどうでしょうか。

わたしと”あなた”の人間関係

人をタイプで見る、機能として見る、その姿勢における人間関係は、
素直な人間同士のそれではなく、「私と、”そういう人”」の関係になる。

もっと言うと、「わたしと、”それ”」です。

そこに、「わたしと、”あなた”」の関係はないわけです。

仮にあなたの目の前の人が、あなたのことをタイプなり機能に還元して見ているとしたら・・
「この人は何タイプだ?」という目で近づいて来て、「なるほど〇〇タイプ、つまりこういうタイプか」という姿勢で関わってきたとしたら、変じゃないですか?

あなたはその人と素直な繋がりを感じられるでしょうか?

“機能”に還元して(されて)しまったら、いわゆる「ありのまま」だとか「無条件の愛」どころではないわけですから。

逆に、そのような小細工にたよらず、理屈に陥らず、ありのまま、素直な興味のままに人と関わる人たちがいます。

「愛嬌」とはまさにこういった人達に対して感じる気配のことではないかと思うのです。

ひるがえって

そこから話を広げて、もう一つ、さらに込み入った(笑)話をします。

“人をタイプや機能に還元して見る”ということは、自分自身のことも同じように見ているとも言えます。

これは人間の規定の仕方、人間観の問題ですから、
「人のことはそうやって見るけど、自分は関係ありません」
という具合にはなかなか都合良くいかないものです。

で、意識的であろうが無意識的であろうが、
自分自身のことも機能に還元して見ているとします。

「そりゃ、落ち着かないだろうな」と。

自分自身と素直な繋がりを持っていないのだから。

機能次第で自分の価値は変化することになり、
つまり、自分の価値を疑い続けることになりかねない。
(やはり、「ありのまま」とか「無条件の愛」どころじゃない。)

だからこういう、人を機能に還元して理解する知識やアイデアが広まれば広まるほど、
自分が自分であることにすら安心できない、
実存的な不安や孤独に悩む人は増えるんじゃないかなと何となく懸念します。

新しい知識やアイデアの全てを否定はしません。
これらを道具としてなら、うまく付き合える人もいるかも知れません。

でも一般には、いまどき、”病んでる”人が多いって聞きますから。

これからの課題ということで

今日の話はここまでです。

これは良い/悪いの話ではありません。
いや、良い/悪いの話ではありますが、
個人的に良い/悪いをジャッジする焦点ではありません。

正直に言うと、僕も人を”機能”として見ることはよくありますし、
その分、自分自身にもそういう目を向けているのだろうと思います。

ただ、自分自身を含む人間について、何が起こっているのかを知り、
そして少しでも喜びの多い方向、良い人生、良い世界を選びたいと、
そんなところです。