先天的/遺伝的要素としての才能と現実の人生

FAQ「才能は必要ですか?」

アーティストやクリエーターのYouTubeで、質問コーナーみたいなのがあると、決まって出て来る質問がある。

「才能は必要ですか?」

“才能”という言葉は、ふだん、定義が曖昧に使われる。

広い意味では、率直に、何かに優れた能力があることを指して、「才能がある」と表現される。

しかし、才能が単純に「能力」のことなら、「才能は必要ですか?」と質問が出るのはおかしい。(買い物をするのに「お金は必要ですか?」と質問する人はいない。)

つまり、この質問の場合(この質問者は)、「才能」を「生まれつき備わっている特性」というような意味で使っている。

だから、言い換えれば、「先天的に有利不利が決まっている条件」という意味での「才能」は必要か?と尋ねていると解釈することができる。

〇〇%が”遺伝”で決まる

このトピックの動画の一つで紹介されていて知ったんだが、どうやら、「能力が遺伝によってどれくらい決定されるか」という研究データもあるみたいだ。

著作権に配慮して貼り付けはしないておくが、 「能力 遺伝」で検索すれば、同じデータが沢山出てくる。よく取り上げられているのかも知れない。

僕が見たデータにあった項目は
「身体」
「知能」
「学業成績」
「才能」
「精神・発達障害」
「物質依存」
「問題行動」
に分かれていた。

それぞれが、遺伝によって決定する割合と、環境によって決定する割合が示されていた。

このカテゴリー分けはどうなんだ?とか、何かと突っ込みどころはありそうだが、細かいことを突っ込んでいったらキリがないので、今回は「才能」の領域についての話とする。

で、その研究報告によると、「音楽」では90%が遺伝的要素で決まるとのこと。
「執筆」の項目もそれに近く、「美術」も60%くらいは遺伝のようである。

現実における”才能”

しかし、問題は、これが果たしてどこまで有意義な、
個々の人生にとってどれほど重要な知見なのか?

僕は疑わしいと思っている。

少なくとも、人生を考える時には、「能力は先天的な才能であったり遺伝によるもの」という話は言葉通りに取るべきではないと思っている。

現実の人間と人生は、もうちょっと複雑だ。

先のアイデアでは、
「人間は成長する」「成長という現象は複雑である」
という事実は度外視されているように思える。

モーツァルトは、アートの歴史の中で最高の天才の一人と言っても差し支えのない人物だが、彼ですら、最初から大作曲家ではない。年月をかけて成長し、才能は深まり、大作曲家になった。

「若い頃の “神童”が、大人になってからは平凡な人間になってしまっている」なんて話はザラである。
逆に、若い頃は平凡だった人が、晩年に才能を開花させることもある。

ベートーベンの交響曲のうちには、新しすぎて当時の演奏家たちには理解されなかったものがあった。
「才能」があっても、成功はまた別の話だったりもする(もちろん、その典型が画家のゴッホだ)。

一本の真っ直ぐの物差しでは測れないのだ。

もっと言うと、このような「遺伝によって才能は何%決まる」というのは、外野が「研究して」言っている。 「音楽の才能の90%は遺伝によって決まる」などと、実際に音楽をやってない人が、(やってないから、)言っているわけだ。

実際に音楽をやっている人は何をしているだろう?
音楽に情熱がある限り、新しい音楽を聴き、楽器を持ち、演奏したり作曲したりするだろう。
「自分は才能があるかどうか?」を気にする暇はない。
それが分かったからと言って、演奏が上手くなったり下手になったり、アイデアが溢れたり枯渇するわけではないのだから。

結局、そもそも・・

以前にも書いたが、才能にとらわれる必要はない。
遺伝や先天的な条件にとらわれる必要もない。

たまたま「才能があった」から入った分野で、長く専念した挙句、最終的にはそれは自分の好きではないことを知って途方に暮れる。そんな人たちはいる。

思い込みの約束のようなものだ。

それに従う義務はないし、

それに従ったからといって、成功や、
現実の人生の充実が約束されているわけではないのである。