自分の望みに条件をつけるという悪癖

人生を創造的に考えるとき、つまり、
思いつきや気まぐれや運や状況に任せに生きるのではなく、
人生を自ら創り出すとき、いつも第一歩となるのは、自分の望みです。

創造は「欲しい成果」を思い描くところから始まります。

しかしそこで早速、「自分の望みが分からない」という悩みが珍しくありません。
多くの人が、「自分のやりたいことは何か?」という最初の問いにつまずいてしまいます。

もちろん、もっと根本的なことを言うと、「やりたいことがない」のは悪いことではありません。
「やりたいことをやろう」というメッセージを吹き込まれすぎて、「やりたいことやらなければいけない」という固定観念になってそれで自分を責めるとしたらそれはそれでおかしな話です。
やりたいことが思いつかないことを気に病むこともないのです。

しかし同時に、実際には、思考の癖によって「望みについて考えること」自体に制限をかけている場合もあります。

その一つが、自分の望みに条件をつける悪癖です。

いわゆる

「お金があったら・・」

「体が悪くなかったら・・」

「自分は〜のような性格だったら・・」

「誰かが〜してくれたら・・」

といった風なものです。

親は子供に対して、悪気なく

「ちゃんと勉強したらお小遣いあげる」

のように「条件付け」によって制御しますが、
あのやり方と思考プロセスを、
大人になってからも自分自身に適用してしまうのでしょうか。
自分の望みに、先手を打って条件をつけることを、
多くの人が癖のようにやってしまいます。

これによって、最初から視野を狭く暗くして、
本当に自分が何を望んでいるのかが考えられなくなっているのです。

しかし大人によって与えられることを前提にしていた子供時代と、
自分で意思決定して行動して獲得しながら生きる、つまり自立した大人とでは、
(当たり前ですが)人生との関わり方やその深さが違います。

子供の頃は、「欲しい」と言えば、「条件」が提示され、
その「条件」をクリアすれば「手に入った」かも知れない。

そうやって自然と「何かを望むこと」と「手に入れるためには条件があること」は関連付けられる。
これ自体は、子供にとって、世界の仕組みを学ぶ一環ではありますが、家庭内/親子関係という狭い世界の仕組みです。

世界の(本当の)現実は、「欲しいこと」と「条件」、そしてそれが「手に入るかどうか」の関係はもっと複雑です。

欲しいものを手に入れるのにどんな条件が求められるかは分からないことが多いし、欲しがったからといって手に入るとは限らないし、条件をクリアしたからといって手に入るとも限らないのです。

その意味では、「条件をクリアすれば欲しいものが手に入る」というのは、子供時代のルールを引きずった狭いものの見方と言えるますし、

逆に、「条件をクリアできないと欲しいものは手に入らない」という考えも、そのコインの裏側です。

とにかく、創造的・内発的な考え方・生き方を基本姿勢にする時、
望み/欲しい成果について考えること自体は、ひとまず
そういった諸々の経験則やセオリーから切り離すことができるのです。

必要(だと思う)条件や、「こうなるだろうな」という予測とは切り離して
本当に自分で望むものについて考える。

そうでないと、与えられた可能な選択肢から良さそうなものを選ぶだけの考え方・生き方..
「自分は何を望んでいる」ではなく、
「自分は何を望めばいいですか?自分は何を望めますか?」
という考え方・生き方になってしまう。

しかし少なくとも、考えるよりも先に自分で上から蓋をすることはない。

もし自分の望みを考えようとしても苦労する時、
何か条件によって蓋をしていると気づいたら、
蓋を脇に置いてリセットしましょう。

難しく考えずに、欲しいものを欲しいと認めていい。

小さな事ですが、その場、その時点で、
自分の本心を認める心の自由を得ることになります。