「チベットの信仰に、この世のすべては幻想だというものがあります。全部が幻想なら、秩序はどうなりますか?」 「出家して、家族も持たずに、一日中瞑想だけしていてもいいのなら、そんなことも言ってられると思うわ」 「どういう意味ですか?」 「チベットのお坊さんには奥さんや子供がいるのかしら。子供がつまずいて、手の骨を折ったりしたら、医者や母親にとっては幻想ですじゃあ済まされないわ」FORESIGHT
山は..青かった
ルネッサンス期の画家たちは、遠くの山が青みがかって見えることに気づきました。
いったんそのことに気づいてからは、彼らはそのように山を描くようになりました。
遠くの山は、長い距離の空気の色が重なって、青く見えるのです。
一方で、それまでの画家は、「山は緑色のものである」という”思い込み”を見ていたわけです。
この話の教訓は、画家が目の前の事実すら見逃してしまうほど、”思い込み”によって、人は”現実”を置き換えてしまうということ。
そして、もう一つ。観察し、気づくことで現実を正しく捉えることができるようになるということです。
あなたの真実、わたしの真実
とある本の中で、こんな言葉を見かけました。
「君の見ている赤色と、僕の見ている赤色が同じ色だって、どうして言えるんだ?」
同じようなものは哲学的な問いとしても見かけます。
確かに、意識は主観的なもので、Aさんが赤色から受ける感覚や感想と、Bさんが同じ赤色から受けるそれらが同じとは言えません。
ところが、これをして「真実は人の数だけある」といったところまで拡大解釈されることがあります。(この時、”真実”という言葉は”現実”という意味も含んで使われます。)
「AさんとBさんにはそれぞれの真実としての赤色があるのだから、客観的な現実としての赤色は存在しない」
という発想です。
しかしこの発想が誤りであることはあっさりと証明できます。
AさんとBさんに絵の具を持たせ、同じ一つの赤色を見本にして、それぞれに色を作らせてみるのです。
そして出来た二人の色と、オリジナルの色、その3つを並べて見比べてみます。
オリジナルと大きな違いのない赤色を作った(仮に)Aさんは、現実をより正しく認識しているし、オリジナルから遠い赤色を作った(仮に)Bさんは、Aさんほど現実を正しく認識していないことが証明されます。
この場合に、「真実は人の数だけある」は通用しないわけです。
音痴の相対性理論
科学の領域では、「現実は単なる幻だ。とてもしつこい幻だが」というアインシュタインの言葉があります。
しかしこれも、先の話と同じです。
アインシュタインはヴァイオリンが趣味でした。なかなかの腕前だったらしいです。
同時に、彼は”拍”をよく間違えて音楽仲間の友人に指摘された、というエピソードも残っています。
その時、彼が「しつこい幻だ」と言い訳をしたとしても、音楽仲間には通用しなかったでしょう。
バイオリンではなくても、音痴の人が音を外して歌えば、ある程度聴く耳を持つ人には明白です。
「これが私の”ラ”の音だ」とか「私の”テンポ”です」は通用しない。
哲学や思想には、現実は幻想だと考えもありますが、それは人間に知りようのない領域の話であり、少なくとも、芸術や人生といった領域では、人は同じ現実を共有しているのです。
“いいとこ取り”はできない現実
また、多くの人が現実を無視してしまう心理の背景には、実際には哲学や思想よりも先に、「悪い現実を避けたい」という思いがあります。
もちろん現実の中には良いことも悪いことも含まれます。決して”いいとこ取り”ができないのが現実というものです。
しかし実際には、多くの人は現実の一部を避けたり、無視して蓋をすることで、かえって人生を混乱させてしまいます。
現実との繋がりを絶った分、思い込み、気まぐれ、運、変化する状況に身をまかせて生きることなるからです。
そうやって人生を送ることが悪いというわけではありません。
しかし、自覚的に、そして創造的に生きる上では、良い方法とは言えません。
音を正しく取れない人に良い演奏はできず、色や形を正しく見ない人に思うような絵を描くことは難しい。
同様に、人生の現実を正しく捉えることをせずに、より良く創造的に生きることは困難になるのです。
繋がりを取り戻す
良いも悪いも含めた”ありのままの現実”を客観的に観察し、正しく受け入れることで、自分自身と人生とのつながりを取り戻します。
それは習得可能な人生のスキルであり、豊かで創造的な人生の土台になります。
現実は、優れた教師であり、良き友人でもあるのです。